ケース2:製造物責任

 

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 「製造物責任」PLProduct Liability)という言葉をご存知であろうか。メーカーが製品を製造し、消費者がそれを購入する。その製品に欠陥があり、消費者が被害を被った場合、消費者は小売店を通さず、直接メーカーを訴え、損害賠償を請求できると言うものである。このPLが法制化されてから、メーカーは品質に万全を期すほか、取り扱い説明書上により詳しい「使用上の注意」を書くようになった。

 あるアメリカの消費者が、雨に濡れたネコを電子レンジに入れて乾かそうとした。当然のことながらネコは焼け死んでしまった。消費者は電子レンジのメーカーを訴えた。「ネコを乾かすのに使ってはいけない」とどこにも取り扱い説明書のどこにも書いていないではないかと言うのである。メーカーは製造物責任を問う裁判に敗れ、消費者に多額の賠償金を支払い、電子レンジの説明書には「生きている動物を乾燥させるために使用してはならない」という注意書きがまた一項加わった。

 しかし、メーカーの不注意による不良品が、人の人生を狂わせるような、とんでもない結果を生むこともある。自動車に構造的な欠陥があり、それが原因で事故が起き、犠牲者が出れば、それは取り返しのつかないことである。したがって、自動車メーカーは、欠陥が見つかった際、リコール届けを出し、すぐに無料で部品の交換修理に応じなければならい。また、コンドーム。小さな穴が、使用者だけではなく、その結果望まれずに誕生した赤ん坊の、その後の人生を大きく狂わせていくのである。

 実は、コンドームと同じく、ほんの小さな欠陥で、その人間を地獄の底へ叩き落とすものが他にもあった。それはファスナーである。以下は、ファスナーのわずかな欠陥が、一人の女性に対して、大きなトラウマを残してしまった例である。

 

 初島恵。二十八歳。ある中規模の設計事務所に勤めるインテリアデザイナーである。その朝、彼女は、ビルを改装するに当たり内装の設計を依頼された顧客を訪問し、電車で自分の事務所に戻ろうとしている。ターミナルの駅で電車を降り、彼女は急ぎ足でトイレに向かう。顧客の事務所でコーヒーを飲み、少し尿意を催したのであるが、その後に案内された改装中のビルには、使用できるトイレがなく、また、電車に乗った駅にもトイレはなかった。彼女は尿意を我慢しながら電車に乗っていたのである。

 午前十一時半。駅の中は比較的空いている。淡い黄色のパンツスーツの襟元から白いブラウスの襟を出し、首にはオレンジ色のスカーフを巻いた短髪の彼女は、一番端のホームの売店の後ろにある女子トイレに入って行った。十個ばかりの個室は、どれも空いている。彼女は奥から二番目の個室へ入る。トイレは和式である。彼女は扉を閉め、仕事道具の入ったベージュ色の大き目のバッグを扉のフックに掛け、尿意のために一度軽い身震いをしたあと、パンツの前のスナップを外して、その下のファスナーを下ろそうとした。

「下りない。」

彼女は呟く。もう一度、力を入れる。しかし、スライダー(引き手のついた金属製の部分をそう呼ぶらしい)が布を噛んでしまったのであろうか、ファスナーは開かない。ファスナーメーカーの説明書によると、スライダーを下ろそうとして動かなくなったときは、一度上げてみると動き始めることが多いという。また、上げようとして動かなくなったときは、一度下げたらいいと言う。しかし、彼女の場合、スライダーは一番上にある。一度上げてそれから下ろすなどというのは不可能である。

「痛い!」

彼女は小さく叫ぶ。小さな金属製の引き手を無理に上げ下げしようとしている間に、ピンクのマニキュアを塗った、右手の親指と人差し指の爪が少し割れてしまったのである。既に、トイレに入ってから五分が経過している。トイレに入った際、一度気を緩めてしまったせいか、彼女の下腹部から股にかけてのうずきは切迫したものになってきている。

「何とかしなくちゃ。」

彼女は自分自身に言う。

 彼女は、ファスナーを閉じたまま、パンツを下げようと試みた。両手で腰の辺りの生地を掴み、出来るだけ腹をへこませて、懸命に下げようとする。しかし、彼女のヒップはファスナーを閉じたままのパンツを下げるには豊満すぎた。二分間の努力ののち、彼女は諦める。それ以上、力を入れると、尿が漏れ出ると判断したのである。

彼女の脳裏に一瞬、自分の左側に掛かっているバッグのなかにある、裁縫セットのハサミのことが浮かんだ。ハサミでファスナーの縫いこんである部分を切ってしまえば、パンツを下ろすことができるのである。しかし、彼女はそれを躊躇した。そのあと、「社会の窓」を開けっぱなしにした状態で、トイレを出て、人ごみの駅を横切り、タクシーに乗るなり、何か着るものを買いに行くなり、そのようなことは不可能だと思われたからだ。

「このファスナーの会社、訴えてやる。製造物責任よ。」

恨めしそうな目で、彼女は引き手刻印されているアルファベット三文字のメーカー名を見つめる。

何かを決心した彼女は、バッグから緑と白のチェックの模様の小さなハンカチを取り出した。息を吐き、できるだけお腹をひっこめた状態で、彼女は右手でそのハンカチを、パンティーストッキングの中の、そのまた下の、ショーツの中に押し込んだ。ハンカチがちょうど、彼女の繁みの下辺りに来たとき、彼女は立ったまま、少し下腹の力を抜いた。長い間尿を我慢したあとの、痒みに似た感覚が尿道に走り、尿がハンカチを濡らすのが分かる。そこで彼女は、

「エイッ」

と小さく叫んで力を入れる。尿が途切れる。ハンカチを引っ張り出して、便器の上で絞る。尿が滴り落ちる。固く絞ったハンカチをまた苦労して、下着の中に差し入れ、力を抜いてまた少し尿を出す。すぐに止める。ハンカチを取り出して絞る。尿が便器の中にしたたり落ちる。しかし、三度目にハンカチを突っ込み、彼女がわずかに緊張を解こうとしたとき、彼女は自身の筋肉に対するコントロールを失っていた。もはや、どう力を入れようが、決壊を抑えることはできなかった。

「いや。」

彼女は、そう叫び、立ったまま放尿した。右手を握り締めたハンカチと一緒にパンツの中に突っ込んだまま。尿はパンツの足元から滴り落ち、大部分は薄茶色のパンプスのなかに流れ込んでいく。 彼女の足の内側の布は淡い黄色から、見る見る濡れて濃い黄色に変色している。

排尿を終えた彼女は、靴を片足ずつ脱ぎ、中にたまった尿を便器に流し、トイレットペーパーで中を拭う。また、トイレットペーパーで、できるだけパンツの水分を拭い取る。とっさにしゃがまなかったのは、彼女にとって正解であった。しゃがんでいたら、尿は彼女のパンツのヒップに大きな円形の染みを残していたであろう。それを他人の目から隠すのは不可能と思われた。今のところ濡れているのは、股の辺りとパンツの内側だけである。鞄を前に当て、小またで歩けば、何とか他人に悟られずに、せめてタクシー乗り場までは行けるかもしれない。彼女は携帯電話を取り出し、オフィスに電話を入れ、気分が悪いので早退する旨を告げる。鞄で前を隠しながら、静かにトイレのドアを開け、通路に出た。誰もいない。彼女は、鞄を前に当て、できるだけ足を開かないようにして、小走りで外に出る。そして、改札口を出てタクシー乗り場に向かう。幸い数台のタクシーが客待ちをしている。彼女は、開けた窓から、中年の運転手に行き先を告げる。後部の自動ドアが開く。彼女がまさに乗り込もうとしたとき、運転手が振り返って言った。

「おねえさん。ズボンが濡れてるけど、それおしっこと違うか。」

彼女の顔がこわばる。反射的に。

「いいえ、違います。」

と言ったものの、彼女の声はかすれている。

「そんな、ズクズクのお尻で座ってもらったら、シートが汚れるがな。」

「すみません。お願いします。」

彼女は懇願する。運転手は一度車を降り、後ろのトランクから黒いビニールシートのようなものを持ち出し、後部座席に広げる。

「この上にお座り。」

彼女は、その上に座り、運転手は発車した。彼女は、自分のアパートに着くまでの四十五分間、涙を流し続けた。中年に運転手は常に無言であった。アパートに自室前で、鍵を開ける間に、彼女は我慢ができなくなり、ドアの前でもう一度に立ったまま失禁した。

 部屋に入った彼女は、バッグからハサミを取り出し、パンツの前を切り開き、パンツを脱ぎ、その後濡れたストッキングとショーツを脱ぎ去る。着替えた彼女は、大きなゴミ袋を取り出し、洋服ダンスの中にあるスラックス、ジーンズ、パンツスーツなど、ズボンと言うズボンをゴミ袋に詰め込んだ。そして、アパートのゴミ集積場へと運んだ。

そのとき「生涯、ズボンははかない。」そう彼女は決心していた。彼女はファスナーメーカーに製造物責任を訴えることはしなかった。

 

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