ケース7:袋小路の女

 

 K市の繁華街、とは言っても少し場末の中川通で、男性の死体が見つかった。六月末のある夜のことである。死体は、黒い皮ジャンパーを着た三十代後半の男であり、腹を数箇所刃物で刺されての失血死であった。

午後十一半、第一発見者から携帯電話で警察に通報があり、まず巡回中のパトカーの警官が現場に駆けつけた。警官が男の死亡を確認した後、K市警察署から、当直の堀田警部と警察医、数人の鑑識課の職員が現場に急行した。死体が発見されたのは、庶民的な飲み屋の並ぶ中川通りから入った路地の一番奥。その路地は織物会社の裏口に通じていた。しかし、その裏口は現在使われておらず、その路地は袋小路と言ってよかった。また、路地は表通りから十メートルくらいのところでL字型に折れ曲がっており、男が死んでいた路地の一番奥、つまり織物会社の裏口の前は、表通りからは直接見ることができない。

路地の入り口では、最初に駆けつけた二人の警官がロープを張り、立入禁止にしていたが、既に午前一時を過ぎ、人通りもなく、その必要もないように思える。医師が死体を検証している間に、堀田警部は懐中電灯で路地の中をくまなく照らしていく。新聞紙、ペットボトル、その他様々のゴミが散乱し、隅や角にはそれらが蓄積している。酔っ払いの吐瀉物と思われる染みが数箇所見られる。

路地の空気は小便の臭いに満ちていた。第一発見者で、通報者の男も、立小便をしようと思い、路地の奥まで来て用を足し始めたところ、自分の小便の落ちた先に男が倒れているのを薄明かりの中に見つけ、驚いて警察に通報してきたものである。ここは酔っ払いの言わば公衆便所なのだと堀田警部は思った。

懐中電灯の作る光の輪の中に、ゴミに混じって奇妙なものが浮かび上がった。それは、脱ぎ捨てられた女性のパンティとパンストであった。同時に脱ぎ捨てられたらしく、ベージュ色のパンティが黒いストッキングに絡み合っていた。堀田警部はそれを取り上げる。下着は、股の二重になったあたりだけではなく、全体がぐっしょりと濡れていた。脱ぎ捨てられたのはごく最近だと直感した堀田警部は鑑識課員向って叫んだ。

「これ、念のために持って帰っといてくれ。」

 

翌日、検視の結果、男の死亡時刻が午後九時から十一時の間だと推定された。K市警察署には特別捜査班が置かれ、堀田警部はその班長に任命された。殺された男に身元はまだ分からない。

堀田警部の指示で、捜査班は目撃者の発見に全力を注ぐことになった。午後十時前後なら、飲み屋の連なる中川通りの人通りは多い。目撃者は十分に期待できた。

そして、その期待は裏切られることがなかった。

刑事のひとりが、中川通りの路地の入り口辺りに、客待ちをしているタクシーが常に数台あるということに気づき、市内に数社あるタクシー会社に聞き込みに回った。その刑事から、午後四時頃、次のような報告が入ったのだ。

「犯行のあった夜、午後十時二十分ごろ、路地から出てきた若い女性を乗せた運転手がいる。」

と言うものであった。その運転手の証言は以下のようなものであった。

「女性は二十代の後半か三十代の前半。身長百六十センチくらいの大柄。肩まで長さのストレートヘア、いわゆる瓜実顔の結構きれいな娘だった。白か薄いベージュのスーツ姿。スーツの下には、紺か紫のTシャツかセーターを着ていた。慌てた様子で、路地から走り出てきて、そのまま、向かい側に停車中の私のタクシーに走り寄り、泣きそうな顔で武隈二丁目までと告げた。三千二百円の距離を乗り、武隈二丁目の交差点の三十メートル手前で降りた。その後、すぐ横の建物にはいって行ったような気がする。」

その、女性が犯人ではないにしても、その女性が何かを目撃している可能性は高い。鑑識から、発見されたパンティとストッキングが濡れていたのは、健康な女性の尿によるものであることが確認され、付着していた体液から血液型が確定された。

堀田警部はひとりの部下と共に、その夜、女性の降りた武隈二丁目交差点近辺の聞き込みに回った。

 

タクシーが客を降ろした地点から三十メートルほど戻ったところに、新築だと思われるアパートがあった。そのアパートだけは、近くのモルタル塗りの建物と違い、赤いタイルが建物を覆っていた。堀田警部と部下の盛田は、先ず、そこの住人をひとりずつ訪ねてみることにした。夜八時を過ぎているのに、約三十世帯あるアパートの半分以上が留守であった。

二階のある部屋のベルを押す。チェーンロックが掛かったまま、ドアが十センチほど開き、若い女性の声が、

「どなたですか。」

と尋ねる。堀田警部は警察手帳をドアの隙間に差込み、自分たちは警察であり、聞きたいことがある旨を告げた。表札には「杉田」とだけ書かれている。ドアが開く。そこに立っていた女性は、髪の毛こそ後ろで縛っていたが、身長、年齢、「瓜実顔」という表現、ちょっと可愛いという運転手の証言と合致しており、堀田警部は、本能的にこの女性がタクシーの利用者だと感じた。女性は薄紫のセーターに白いジーンズを履いていた。

「杉田さんですね。」

警部の質問に対して、彼女はうなずく。

「下のお名前は何とおっしゃいますか。」

「美沙ですが。」

若い刑事が手帳に名前を控える。

「杉田美沙さんですね。ここにはひとりでお住まいですか。」

「はい。」

という会話の後、堀田は本題を切り出した。

「あなたは、昨夜十時半ごろ、中川通りからこのおうちの前まで、タクシーを利用されましたね。」

堀田警部の問いに、女性の顔が一瞬凍りついた。

「えっ、いえ、はい。確かに昨日は中川通りからタクシーで帰ってきましたが。それが何か。」

女性が、狼狽を隠そうそうとしているのが、警部にはありありと分かった。

「タクシーに乗られる直前、あなたが路地から出てこられたと、タクシーの運転手が証言しているのですが。それは本当ですか。」

堀田警部は、白髪の混じった頭をかき上げながら、穏やかな調子で質問を続ける。

「いえ、はい、あの、仕事の後同僚と飲みに行って、ちょっと飲みすぎたもので、気分が悪くなって、その、つまり吐きそうになったもので、それでちょっと路地に入って。」

「そのとき、路地の奥に、男が倒れていたのに気がつきませんでしたか。」

堀田警部の声の調子は変わらない。昨日の服装と言い、紫と白というのが、この女性のお気に入りの色なのだと警部は思う。更に、警部は彼女の薄紫のセーターの腰のあたりに目をやる。ジーンズとの境目がすっきりしていて皺がない。これはセーターではなく、股までつながっているボディースーツと言うものだなと、警部は判断した。

「いえ、あの、何も気がつきませんでしたけど。」

若い女性は少し間をおいて答える。

「盛田君、ちょっと外で待っててくれ。」

そう言って、初老の警部は若い部下をドアの外に出し、ドアを閉めた。

「杉田さん。あの路地に、下着とストッキングが脱ぎ捨ててあったんですが、あれはあなたの物ですね。」

女性の顔が一瞬泣きそうになり、

「いいえ、違います。私じゃありません。」

と声が一瞬高くなった。

「実は、あの路地で、同じ時間に殺人事件があったんですよ。その場所から、あなたは出て来られたのです。下着についていた体液からもう血液型は分かっていますし、DNA鑑定をすれば誰のものかすぐ分かるのですがね。」

と堀田警部は彼女の顔を見つめて言う。半分は嘘である。実は、尿からは血液型は確定できても、DNA鑑定はできないのである。

「あなたがなさったこと、見られたことを、正直にお話いただけけると助かるのですが。」

若い女性は堀田警部を見つめた。彼女の目から涙があふれた。彼女は低い声で話しはじめた。

「私は本当に何も知りません。正直にお話しますと、夕べ、飲みに行って店を出た後、しばらく友達と外で喋っていたら、その間にトイレに行きたくなって、どうしても我慢できなくなって、仕方なくあの路地に入ったんです。一番奥で、下着を膝まで下ろして、用を足そうとしたら、暗くてよく分からなかったけれど、誰かが横に寝ていて、小さな唸り声を立てたんです。私はびっくりして立ち上がり、その場を離れようとしました。そのとき下着を少し濡らしてしまったんです。それで、濡れた下着とストッキングはその場に脱ぎ捨てて、タクシーに乗って帰ってきただけです。それだけです。その男の人、本当に酔っ払って寝ていると思ったんです。あの辺りには酔っ払いが普段からいっぱいいますから。本当です。殺人事件だなんて考えもしませんでした。」

杉田美沙は涙声でそれだけのことを話した。彼女の頬は羞恥で紅潮していた。

タクシー運転手の証言、彼女がたいそう慌てた様子だった理由も、排尿現場を誰かに見られたのではないかという狼狽、その後の失禁に対する羞恥、おまけに下着を脱ぎ去りノーパンで帰るはめになったという異常な状態から容易に想像できた。

「下着を少し濡らしてしまった」と彼女は控えめに表現している。しかし、見つかったパンティの濡れ具合から見て、男の存在に驚いて立ち上がった彼女が、パンティを引き上げる暇があったかは別にして、おそらく、彼女は出かかった尿をもはや止めることができず、立ったままか、その場を離れながら、かなり大量の尿を放出したに違いない。堀田警部は想像した。また、彼女自身も、下着がどんな様子で見つかり、堀田がその前後の様子をどのように想像しているかを、感じとっているに違いなかった。一瞬の気まずい沈黙の後、

「杉田さん。あなたを疑っているわけではありません。私がお聞きしたいのは、あなたが路地へ入っていくときか出るとき、誰か見かけなかったかと言う点なんです。」

堀田は、淡々とした調子を変えずに尋ねた。彼女は手の甲で涙を拭きながら、少し考えた末にこう答えた。

「そういえば、わたしが駆け込む直前に、大柄な男が路地から出てきました。」

「その男の人相や服装をもう少し詳しく教えていただけますか。」

杉田美沙はその男の様子をかなり詳しく覚えていた。頭の良い女性だと堀田警部は思った。

 

他の刑事たちの働きにより、その夜のうちに殺された男の身元が分かった。大宮という、無職の男であった。杉田美沙の証言から、犯人は被害者の知人で、同じく失業者の田中という男であることが判明。その翌日の午前中、田中は中川通りのパチンコ屋で逮捕された。スピード逮捕であった。田中は堀田警部の取調べで、犯行を自供した。ふたりの間で貸し借りされた、十万円にも満たない金が犯行の原因であった。

堀田警部は、記者会見で記者たちに、女性の目撃者がいたことは一言も話さなかった。

 

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