ケース8:悪夢のプレゼンテーション
八月十日(火)、晴れ、恨めしいくらいの良い天気、またもカンカン照り、最高気温三十七度。そして、人生最悪の日・・・
今日は兼友商事でのプレゼン。十時のアポに合わせて、北村社長と九時に会社を出た。
「吉岡くん、よく分かっているとは思うが、今日のプレゼンには、うちの社運がかかっているんや。何度も言うようやが、くれぐれも粗相のないように、気合を入れてやってくれないと困るよ。もし、兼友商事の契約が取れたら、我社の売り上げは倍に伸びるんやからね。」
って、社長は道々シツコク大阪弁で念を押す。言われなくても分かってるわよ、そんなこと。それに、そんなに大切なプレゼンならば、社長が自分でやればいいじゃん。ヒトにやらせておいて、あれこれ言うんじゃないっていうの。こっちはこれまでいろんなお客の前で、何百回も同じこと喋ってるんだから、ぬかりはないわよ。
地下鉄から降りる。途中事故だか何かで、電車が十五分ほど停まったため、兼友商事の近くの駅に着いたときは、既に十時五分前だった。
地下鉄の階段を昇りきって、外に出たとたん、熱風が体を撫ぜた。
「あちー。」
わたしは叫ぶ。スリップドレスが最適の天気。なのにわたしは、半袖とは言うものの、紺色に白いストライプの入ったスーツ姿。きっちり背広を着込んだ北村社長も、たたんだハンカチでしきりに顔を拭っている。
「急ごう。遅れたら大変や。」
電車の中から既に十秒おきに腕時計を覗き込み、イライラしている社長に急かされて、わたしは速足で兼友ビルに向かって歩き出した。
兼友ビルの前に着いた。最後の数百メートル、社長が駆け出すものだから、着いたときにはふたりとも汗だく。ともかく、玄関の回転ドアを抜けて中に入る。ちょっとブルッてくるくらいの冷気がわたしを包む。このビルちょっと冷房を効かせすぎじゃないの。
「でけー、リッチー。」
ビルに足を踏み入れたとき、私は心の中で叫んだ。どでかいビル。十六階建。玄関は十六階まで吹き抜けになっている。床は大理石、色とりどりの大理石がモザイク風に埋め込まれている。うちのオフィスと随分違う。うちなんか、西日の当たる場末のビルの二階。午後はエアコンなんて効きやしない。おまけにビルの地下がスナック。残業していると、防音の悪い壁を伝って、下手なカラオケが聞こえてくる。でも、兼友商事は従業員何千人、こっちの従業員は掃除のおばさんも含めて十六人だもん。当たり前なんだけど。
受付で、ちょっと気取った受付嬢のお姉さんたちに来意を告げ、「来客バッチ」をもらって、エレベーターに向かう。
「社長。オシッコしていきますから、ちょっと待って。」
わたしはトイレの前で社長に言う。
「あかんあかん。もうアポの時間を十分も過ぎてるんや。そんなん後や後。」
社長はわたしの腕を取り、ちょうど開いたエレベーターのドアに無理やり私を引っ張り入れた。エレベーターの中も冷房が効いており、走って汗で濡れたブラジャーやショーツが肌に冷たく感じられ、わたしはブルッて身震いをした。
八階でエレベーターを降りる。「情報システム部」と書いた大きな看板の横を通り過ぎて、受け付けで指示された第四十三会議室へと小走りで向かう。会議室だけでも少なくとも四十三もあるわけね、ここ。
北村社長が第四十三会議室のドアを細く開ける。わたしも隙間から中を窺う。中にいるのは二十人余り、既に着席してドアの方を注視している。社長が上半身をほぼ九十度に曲げながら中へ入っていく。
「ユニバーサル・ソフトウェア・サービスの北村でございます。本日は、遅れまして、誠に申し訳ございません。」
社長は、水飲み鳥のようにペコペコしながら、向こうの責任者と思われる何人かに挨拶をしている。いつものことだが、いつもはベタベタの大阪弁なのに、アクセントが標準語っぽくなっている。
「こちらは、本日、皆様に、弊社の製品、『マルチ・オフィス・パック』をご説明させていただく吉岡でございます。」
社長はお客にわたしを紹介する。わたしも深々と九十度のお辞儀をする。向こうさんは全員男。さすが、大手商社の社員、皆「やる気」が服を着ているような感じ。バリバリの雰囲気。
「吉岡くん。すぐに準備を。」
社長に言われるまでもなく、わたしは、鞄からラップトップを取り出しスイッチを入れ、プロジェクターの端子に接続する。間もなく、『マルチ・オフィス・パック』のプレゼン用の画像が、会議室の前面のスクリーンに映し出された。スクリーンの横には、ホワイトボードが立っており、その横にプレゼンターとしてのわたしの席があった。
わたしは四十五間、二十余人のバリバリ男性と向き合って、製品の概要を紹介した。社長は最前列に座っている。最初は質問もなく、実に静かなプレゼンであった。わたしは、例のオシッコのこともあるので、
「ではここで五分間ほど、休憩を取らせていただきたいと思います。」
と一旦説明を切った。半分くらいの出席者が立ち上がる。わたしが、まさに会議室の外へ出ようとした瞬間、社長が私を呼び止めた。
「吉岡くん、永山部長様がご質問だそうだ。答えてくれたまえ。」
わたしは仕方なく席に戻り、相手側の責任者と思われる中年の男性からの質問を受ける。それが、また細かいおっさんで、微に入り細にいる質問をする。五分間はあっという間に経ち、席を外した出席者が帰って来始めた。
「やばい。これじゃあ、トイレに行く暇が。」
わたしがそう思った瞬間、
「では、時間も押しておりますので、プレゼンを続けさせていただきます。」
と社長が言った。
「おい、ちょっと、待って。それはアタイの台詞・・・」
わたしは叫びかけたが、お客様の目の前ということで、かろうじて思いとどまった。わたしは、仕方なくオシッコを我慢したまま第二部の説明に入った。幸い、座ったままで、しかもわたしの下半身は他の人からは見えなかった。わたしがぎゅっと閉じた足を時々擦り合わせているのは、その時点では誰にも見つからなかったみたい。
次の休憩時間も同じだった。こんどは例の部長だけではなく、他の出席者も次々質問を始めた。わたしはまたもやトイレに行くチャンスを逃したまま、第三部の説明を始めることになってしまった。
「辛いよー。」
私はスカートの中に手を入れ、下着の上から手で大切な部分をぎゅっと握ったまま説明を続けた。小刻みに震えるハイヒールが床に当たって足はカタカタと音を立てている。
「オシッコーーーー。」
わたしは何度も大声で叫びたい気持ちになった。説明もしどろもどろ、何を喋っているのか、分からなくなってきた。
突然質問が来た。どうしても前に置いてあるホワイトボードを使っての説明が必要な場面である。私は立ち上がり、太股をくっつけたまま、膝から下だけを動かして、ホワイトボードに向かった。そのとき、体から一瞬スーと力が抜けたような気がした。パラパラと音がして、スカートの裾から、水滴が落ちた。まずい、わたしの意志に反して、オシッコが少し漏れ出てしまったのだ。一番前に座っている北村社長はすぐそれに気がついた。
「よ、吉岡くん。な、何てことを。こ、子供じゃあるまいし。こ、こんなところで。」
「申し訳ありません。」
「は、早く、ト、トイレに行ってきなさい。」
わたしはスカートの前を少したくし上げ、その中に手を入れて、ストッキングと下着の上から股を押さえながら、ヨチヨチ歩きの幼児のような足取りで出口に向かって歩き出した。部屋中の男性の視線がわたしの下半身に集中していた。その中でわたしはドアへ向かう。幸い最初パラパラっと来ただけで、人前での大決壊は避けられそうだ。いや、それだけは何としても避けなくてはいけない。
しかし、わたしの鉄の根性も出口までが限界だった。出口から廊下に出てドアを後ろ手で閉めたその瞬間、パンストと下着が一瞬熱いもので膨らんだように思われた。そして、次の瞬間、下半身に熱いシャワーを浴びたような感覚が走った。もう自分の意志とは関係なく、大量のオシッコが、半分は足を伝って靴の中に流れ込み、残りの半分はスカートの裾から裏地を伝って滴り落ちた。
「いやだー。やっちゃった。」
わたしは叫んだ。おしっこが見る見る靴の中から溢れて床に流れ出した。
一分半は続いた大決壊が終り、一瞬ボーゼンとしているとき、北村社長がドアから顔を出した。
「おい、吉岡くん、何をしてるんだ。お客様がお待ちだ。早くしないか。」
私は仕方なく、靴を脱いで中に溜まったオシッコを床に流しただけで、部屋に戻った。幸い、廊下は絨毯で、染みは残ったが、水溜りにはならなかった。
部屋に入る際、出席者の方は見ないようにしたが、彼らの目が再びわたしの下半身に集まっていることを痛いほど感じた。歩くと、オシッコまみれのハイヒールの中でグニュグニュという音がする。ストッキングの足には、オシッコが流れ伝わった跡が幾筋も残ったままだ。スカートの裾からはまだポタポタと雫が滴り落ちている。
椅子を汚すが怖くて、座ることはできない。わたしはそのまま立った状態で、残りの三十分間、説明を続けた。ホントに地獄の時間だった。
全ての説明が終わり、
「なにかご質問があれば承ります。」
とわたしが言うと、今度は、誰も質問しなかった。
「もう、あのときヒトをトイレに行かせないくらい質問攻めにしたくせに、どうして今になって質問しないのよ。」
わたしは心の中で叫んだ。
「それでは、大変失礼いたしました。」
と頭を下げ、わたしは小走りで出口へ向かった。今更走っても手遅れ、もうさんざん恥ずかしい場面を他人に見られたんだけど。でも、どうしても走らざるを得なかった。
トイレに駆け込んでも、全てが「遅過ぎ」って感じ。もう出来る手当てはほとんどなかった。わたしはパンストとショーツを脱いで、汚物入れに捨てた。トイレットペーパーで靴の中を拭う。それだけ。スカートは裏地を通り越して、表の生地まで染み出しており、もう拭いてもどうしようもない。
トイレから外に出ると、冷気が下着を取ったむき出しのお尻を撫ぜた。わたしは、下半身に鳥肌が立つのを感じた。
兼友ビルを出て地下鉄の駅に向う道中、社長はわたしに怒鳴り続けた。
「こともあろうに、大事なお客様の目の前で、ええ大人がションベンを垂れるやなんて。こんなアホな話、聞いたこともない。」
「半分の責任はアンタにあるのよ。」
しかし、わたしは、口には出さず、心の牙を社長に向けた。
「それで、濡れたモノはどうしたんや。」
駅の階段で思い出したように社長が聞いた。
「トイレで捨てました。」
わたしが答えると、
「ほな、今はノーパンかいな。」
社長はわたしのスカートの中を見透かすように眺めた。
「この、セクハラおやじ。」
わたしは、口には出さずに、社長を睨み付けた。
会社の近くの駅で降りた後、わたしは社長と別れ、スーパーで安物のショーツとパンストを買って、スーパーのトイレで身につけた。スカートはもうすっかり乾いていた。
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八月十六日(月)、今日も晴れ、またもカンカン照り。はたまた、人生最最悪の日。
信じられない。兼友商事の契約が取れた。あんな大失態にもかかわらず。社長は大喜び。でも、私の心は重い。しかも、社長はわたしを兼友商事の担当に任命した。これから何回も兼友商事に出向かなくてはいけないなんて。そして、あのプレゼンの出席者とまた顔を合わさなければならないなんて。ああ、惨め過ぎ。