ケース11:深夜の空港で
我々三人がアンコナ空港に着いたのは午後七時半だった。十一月だというのに、顔を撫ぜる空気が柔らかい。南イタリアに来たことが肌で感じられる。
この町にある子会社の工場で、我々は明日から数日間作業をすることになっている。「我々」と言うのは、私の会社の情報システム部長である中沢さん、私、それに協力会社のシステムエンジニアである郁子・ローゼンタールさんである。我々は午後事務所のあるフランクフルトを発って、まずミラノに飛び、そこからイタリアの国内線に乗り換えて、このアドリア海岸の港町に着いたところだ。
入国審査はもうミラノで済ませてきているので、飛行機を降りた我々は、真っ直ぐ荷物の受け取り場所に向う。我々を運んできたアリタリア航空機は、アンコナから更に南のぺスカラという町に飛ぶ。アンコナで一緒に降りた乗客は約四十人。ベルトコンベアが動き出し、荷物が黒い仕切りをパタンパタンと押し開いて現れる。周囲の人々は自分の荷物を受け取り出口へと向っている。間もなく、荷物が途絶えて、ベルトコンベアが停まった。結局、我々三人の預けた荷物だけが出て来なかった。
仕方なく、我々は荷物受け取りの隣にあるカウンターへ向う。私が英語で、フランクフルトから乗り継ぎで来たが、荷物が出てこなかった旨を、見るからに軽くて、頼りなさそうな若いイタリア人の男性職員に告げる。彼は、我々三人から、荷物を預けた際にもらった半券を受け取ると、後ろのオフィスに消えた。
我々はそこで十五分くらい待たされた。オフィスの中からは、さきほどの職員がイタリア語で電話している声が聞こえる。しかし、我々三人の誰もがイタリア語を解さないので、彼が何を言っているのか見当もつかない。
ようやく、職員が事務所から現れた。
「あなたがたの荷物はまだミラノにある。」
と彼はイタリア語訛りの英語で言った。どうやら乗り継ぎの際、積み忘れられたらしい。
「しかし、心配することはない。次のフライトで来る。」
とニッコリとして彼は言う。
「次のフライトは何時か。」
と私が訪ねると、十時半であると言う。私は時計を見る。既に八時を回っていた。
「どうしますかね。」
私は中沢さんの意向を尋ねた。
「一度ホテルに帰ってまた取りに来るのも面倒だし、空港のレストランで、晩飯を食って、ビールでも飲んで待っていますか。」
と彼は言う。私も郁子さんも依存はなかった。
「では、十時半に取りに来るから。」
と私は職員に告げる。
「あなたがたは十時までに来なくてはいけない。なぜならば、十時に私も含めほとんどの職員が帰ってしまうからだ。十時前に空港に来て、受付の職員に荷物の半券を見せると、この中に入れてくれる。しかし、十時を過ぎると、その職員もいなくなるから、ここへ入れなくなる。」
彼はそう言った。その十時までさえ、まだ一時間半以上ある。我々は荷物受け取り場所から外に出た。ロビーの片隅にバーがあったので、そこに陣取り、ビールと軽食を注文し、飲みながら、十時になるのを待つことにした。
郁子・ローゼンタールさんというのは、年齢が三十歳を少し越えた程度、頭も良いし、性格も明るいし、技術もあるし、一緒に仕事をするにはなかなか好ましい女性である。英語、ドイツ語と語学も堪能だ。更に、小柄だが、顔もスタイルもよく、「女性」としても十分な魅力がある。ただ苗字からみても分かるように、三年ほど前にドイツ人の今のご主人と結婚していた。三十歳を大きく過ぎて、いまだに独身の私は、彼女を魅力的だと思うが、彼女はもう手の届かない存在なのだ。
今日の彼女は、濃紺にストライプに入ったスーツを着ていて、白いシャツの襟をスーツから出している。スカートの丈は私好みの膝頭の少し上、首には、不思議な幾何学模様の入った、黄色いスカーフを巻いている。
彼女はビールが好きらしく、「ハイネッケンビール」のグラスを、いいペースで空にしていっている。私は、彼女が美味しそうにビールを飲む様子を眺めていた。中沢さんの冗談に反応する彼女の明るい笑い声が、しんとした空港のロビーに響いていた。
時計を見ると、九時四十五分だった。
「ぼちぼちですかね。」
と私が残りの二人に言うと、
「それじゃ、ぼちぼち行こうか。」
と言って中沢さんが立ち上がった。我々三人は勘定を済ませて、再びホールを横切って、到着客の出口に行った。職員に、荷物の半券を見せる。彼は出口の自動ドアを開けてくれた。我々は中に入る。そこには誰もいない。先ほど若い職員のいたカウンターさえももうシャッターが下りていた。ガランとしたホールにいるのは我々だけだった。まだ次の便が到着するまで三十分以上ある。我々は、ベルトコンベアの傍のベンチに並んで腰をかけた。
中沢さんが、手提げ鞄の中をごそごそやっていると思ったら彼は小さな平たい紙の箱を取り出した。それはすこし小ぶりのトランプだった。
「暇つぶしにトランプでもいかがですか。」
中沢さんは言った。いつもながら用意の良い人であると、私は感心した。我々は誰もいないホールで「セブンブリッジ」を始めた。郁子さんの高い声が「キャッ、キャッ」と静まり返ったホールに響き渡る。
トランプを始めて十五分ほどたった。郁子さんのトーンが少し落ちてきた。だんだんと無口になって、中沢さんの冗談にも反応しなくなってきたような気がした。彼女の方を見ると、両膝をぴったりとくっつけて座っていた。もちろん、彼女は短めのスカートをはいているのだから、膝を閉じて座るのは当然だが、その膝の閉じ具合を私は不自然に感じた。よく見ると、彼女の腰から下が貧乏ゆすりのように、少し震えていた。
間もなく彼女は、
「ちょっと失礼します。」
と言って立ち上がった。彼女の靴音がコツコツと静寂の中に響き渡る。どこへ行くのかなと思ってみていると、彼女はホールを一周しただけで戻ってきた。彼女の顔は少し蒼ざめている。
「この場所って、おトイレがないんですよね。」
彼女は困惑の表情を浮かべてそう言った。察しのいい中沢さんでなくても、私にも、先ほど郁子さんが景気よく飲んだビールが、現在どんどんと彼女の膀胱に溜まりつつあることが想像できた。
「到着ロビーにトイレがありましよ。出て、そこで待っていてください。私が郁子さんの荷物も持って出ますから。」
中沢さんはそう言った。
「そうですか、では、申し訳ないですけれど、お願いします。」
そう言い残して残して、郁子さんは出口の自動ドアに小走りで向った。中沢さんと私は彼女を見送った。彼女は自動扉の前に達した。しかし、ドアは開かなかった。
彼女は、今にも泣きそうな顔で戻ってきた。ハンドバックで股の部分を押さえつけ、上半身は三十度くらい前傾し、太ももをつけたまま、膝から下だけで歩いている。
「だめです。あのドア、開きません。」
彼女はうらめしそうに言って、私たちから二メートルくらい離れたベンチに座り込んだ。
更に、十分が経過した。遅れているのか、まだミラノからの最終便は着かない。隣のベンチに座る郁子さんの顔は真っ青で、目に涙を浮かべ、下半身だけでなく、身体全体がぶるぶると震えている。
「ううっ、痛い。」
と彼女は言った。
「女性にこんなことを言うのもなんですが、どうせここのホールには我々だけしかいないんだし、どこか物陰で用を足されたらいかがですか。」
と中沢さんが彼女の方を見てそう言った。彼女は声にならない返事をした後、ベンチを立ち、中沢さんと私に背を向けて、奥へ向って三、四歩、進んだ。
「あ、だめ、いや。」
彼女はそう言って立ち止まった。私に背を向けたまま、彼女は、それから五秒ほどそこに立ちすくんでいた。そのうち、チョロチョロという音が聞こえ出した。中腰になっている、郁子さんのスカートから落ちる水滴の音だった。数秒後、
「ひーっ」
と彼女は叫んだ。それを合図に、水の量が増え、スカートの裾からは滝のように水が落ちだした。一部の小便は模様の入った黒いストッキングを伝わってパンプスの中に流れ込んでいた。彼女の足元に水溜りがどんどん広がっていく。
「もう、いやー。恥ずかしいーっ。」
そう言いながらも、彼女は、足を閉じた中腰の姿勢のまま、失禁を続けた。
彼女の小便が一通り出し尽くしたと思われたとき、中沢さんがベンチから立ち上がり、彼女に近寄った。中沢さんはポケットからハンカチを取り出し、無言で彼女に渡した。彼女は、それまで閉じていた股を開けて、お尻や、太もも、ふくらはぎをそのハンカチで拭き始めた。スカートの裾からはまだ水滴が落ちていた。後ろ向きで、しかも、彼女の肩までの髪がうつむいた彼女の顔を隠していたので、彼女の表情は分からなかった。ただ、「ウッ、ウッ」と言う嗚咽が聞こえてきた。
一通りお尻と足を拭き終わった彼女は、水溜りのある場所を離れ、パンプスを脱いだ。彼女がパンプスを下に向けると、中から小便がジャーとこぼれた。嗚咽は完全に泣き声に変わっていた。彼女は「ウー、ウー」と泣きながら、靴を手に取り、ハンカチで拭きだした。しかし、ハンカチは既にたっぷり水を含んでいたので、それがどれほど効果のあるものかは疑わしかった。
そのとき、
「いやだーっ、どうして。また、出るぅ。」
と叫んだと思うと、彼女は、今度は股を開いた状態で、再び失禁した。今回、彼女は、下着が見えるぎりぎりのところまで、靴を持った両手で、スカートをたくし上げていた。しかし、彼女がせっかく拭いたお尻や足に、また、小便の流れる染みが幾筋もできた。彼女の靴を脱いだ足元に、先ほどよりは小ぶりであるが、また新たな水溜りができつつあった。小便と言うものは、最初は何とか永く我慢できても、一度出してしまうと、もう前ほど我慢ができないものらしい。私はそう思った。
突然ブザーの音が聞こえた。ベルトコンベアの傍の赤いランプが点滅を始め、その後、ベルトコンベアが動き出した。話し声が聞こえたかと思うと、滑走路側の扉が開いて、数人の乗客が入ってきた。最終便が着いたのだ。郁子さんは、あわててたくし上げていたスカートの裾を戻し、手に持っていた靴を履き、自分の作った水溜りを離れた。彼女の移動した跡には、お尻から垂れる雫が点々と残った。
乗客たちは、自分の荷物を受け取って、出口へと向う。先ほど開かなかった出口のドアが、今度は何の問題もなく開いている。我々の荷物も出てきた。ほとんど放心状態で立ち尽くす郁子さんに変わって、中沢さんが郁子さんの荷物をコンベアから取り上げる。郁子さんは
「す、すみません。」
と言って、その荷物を受け取った。
出口からロビーに出たとき、郁子さんは全速力でトイレに駆け込んで行った。同時に三度目の失禁が始まったらしく、彼女の走った跡の床には点々と水滴が残り、そこだけ天井からの淡い照明が反射していた。
十分ほどして、出て来た彼女は、例の濃紺に白いストライプのスカートから、グレーのスラックスに着替えていた。しかし、靴は一足しか持ってこなかったと見えて、足元は、先ほど一度小便まみれになったパンプスのままだった。彼女は
「お待たせして、すみません。」
と中沢さんと私に言った以外、ホテルに着くまでのタクシーの中で、一言も喋らなかった。ホテルに着いた後も、彼女は、一言
「おやすみなさい」
と言っただけで、自分の部屋に消えていった。
そして、それから数日、彼女は常に寡黙だった。