ケース16:代行バス
「現在、当線の青山駅と東郷駅の間が事故で不通となっております。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、青山駅よりも先へ行かれるお客様は、次の青山駅で一旦お降りいただき、駅前から運行されております代行バスをご利用願います。」
社内にそんな放送が入った。ええっ、そんな。わたしのアパートのある国原は青山からまだ二つ先。降りなくてはいけないじゃない。邪魔くさいなあ。今日は七時から料理教室があるので、これでも無理して、上司と視線を合わさないようにして、会社を定時の五時きっかり出てきたのに。これじゃ間に合わないかもしれないわ。今日は教室で、わたしの好物、マカロニグラタンとロールキャベツを作る予定なのに。
電車は間もなく青山駅に到着。乗客の全員が降りる。乗っていてもそれより先に行かないんだから、当たり前だけど。仕方がないけど、面倒臭いなという、諦めと憤りの表情が、どの乗客の顔にも浮かんでる。大勢の乗客が一度に降りたので、改札口を出るまでに三分ほどかかってしまった。改札を出ると、ハンドマイクを持った駅の職員が
「代行バスは向かって右側のバス乗り場三番より出発していまーす。代行バスをご利用のお客様は右側へお進みくださーい。」
と叫んでいる。マイクの音が割れていてほとんど聞き取れない。叫び続けるその職員の額には、滝のような汗が流れている。私も冷房の効いた電車から降りて、人ごみに揉まれて、下着がじっとり汗ばんでいるのがわかる。
わたしは右側に進んだ。確かに、バスが二台並んでいた。しかし、バス乗り場のには既に大勢の人が集まっていて、その人たちが何となく殺気立っていて、容易に近づけない雰囲気。ほぼ満員の電車から降りた乗客は一体何百人になるんだろう。仮に五百人として、一台のバスで運べる人数は五十人として。それに、その前の電車、その後の電車も同様に乗客であふれているというのに。これじゃ到底バスが足りないわ。
わたしはそこで二十分ばかり待って、七台めか八台めのバスにやっと乗り込んだ。もちろんバスは寿司詰め。待っている間に、私はトイレに行く必要性を感じてたんだけど、とにかく、この目の前のバスに乗らなければ、家には帰れない。国道沿いには、パチンコ屋もあるし、ファミレスもあるし、本当にトイレが我慢できなくなったら、途中でバスを降りて、どこかに駆け込めばいいだから。そう自分に言い聞かせて、わたしは尿意を無視して、バスに乗り込んだ。もちろん、座れない。立ったまま。
バスは駅前を一周して商店街を抜け、信号を右折して国道に入った。わたしは身長が高い方なので、背伸びをすると、周りの乗客の頭越しに、少し外が見える。ええっ、これ何よ。いつも、電車で通勤しているから知らなかったけど、午後六時の国道ってこんなに混雑しているものなの。ぎっしり車が詰まっていて、全然進まないじゃないの。今日は事故で電車が動いてないから、余計に混んでいるのかしら。
汗がテラテラと体中に噴出してくる。白いブラウスが背中に張り付くのが分かる。ブラもショーツもじっとりと湿っている。スラックスの下にパンストを履いているので、下半身が特に蒸れてきている。何より、このおしっこ、何とかならないのかしら。だんだん膀胱が張ってくるのが分かる。おしっこがしたいから、我慢しているから、余計に汗がでるのよね。次の停留所で降りたほうがいい。そうして、どこかでトイレを済ませて、それからまたバスに乗ればいい。バスは次から次へとどんどん来るんだから。でも、さっきから、バスはほとんど進まない。十分たって、五十メートルくらいしか進んでいない。このままのペースだと、ちょっとやばいよ。
やっと、停留所が近づいてきた。わたしは何とか手を伸ばして、天井にある、「次停まります」と書いたボタンを押した。「ピンポン」と音がする。その途端、運転手からこんな放送が入った。
「このバスは代行バスですので、次の西国原駅まで、停留所には停車いたしません。」
何よ、これ、一体。冗談じゃないわよ。西国原なんて、まだ一キロも二キロも先じゃないの。三十分たって、さっきからまだ五百メートルも進んでないのよ。このまま行くと、次の駅まで、まだ一時間以上かかるに違いないわ。そんなに長く、そんなに長く、おしっこを我慢できる自信、わたしには、とてもないわ。一体どうすればいいのよ。
でもどうしようもない。我慢するしかない。わたしは、天井の棒につかまっている手に力をいれた。当分トイレに行けないと、思えば思うほど、切迫感がどんどん増してきて、腰より下がブルブルと震えだしている。どうして、暑いからって行って、昼からウーロン茶をガブ飲みしたのよ。どうして、青山駅でトイレに行かなかったのよ。わたしの心には次々と後悔の念が、目には涙が浮かんだ。
更に三十分。バスはまだ青山と西国原の中間あたりにいる。おしっこを我慢する、あの痒いような感じが、痛いような感じに変わってきている。ショーツの上にパンストを履いて、その上にグレーのスラックスをはいているんだけど、腰のベルトの辺りが痛い。これって腎臓かも。我慢しすぎて腎臓に負担がかかっているのかしら。
そうだ。気分が悪くなったことにして、運転手に頼んで、わたしだけ降ろしてもらおう。本当なんだから、これ以上我慢すると、膀胱炎か、下手をすれば腎臓も悪くするかもしれない。でも、どうすればいいの。いずれにせよ。もう少し前に行って、運転手にそれを伝えなくちゃ。
「すみません。ちょっと通してください。」
「すみません。ちょっと前に行かせてください。」
お願い、道を空けて。前に行かせて。じゃないと、じゃないと、わたし、ここで、おしっこを垂れちゃうんです。若い女性が、それほど困っているんです。
「お願いします。ちょっと、通してくださ・・・」
わあ。これ何。この感覚は何。痛い。あっ、漏れる。でも、が、我慢・・しなきゃ。
「すみません、お願いしま・・・」
いいっ。でも、もう、ダメ。
「お願い・・・」
限界。
ううっ。でちゃった。嫌よ、こんなの。でも、少しだけよ。少しだけ。止めるのよ。少しだけ出して、爆発を押さえるのよ。まだ何とかなるは。ああっ。どうして止まらないの。ぐぐっ。ダメ、どんどん出ている。お願い、止めて、わたしのおしっこ。ああ、わたしは今、糸の切れた凧。
わたしは結局、立ったまま、一リットル近いおしっこを漏らしたと思う。最初に気がついたのは、わたしの横にいた、四十歳くらいの、中小企業の係長風の短髪サラリーマンだった。その男性は、足元を見て、床が塗れているのに気づいた。
「何だ、この水は。それに、何だ、この臭いは。誰か小便しやがった。」
男は走叫んだ。わたしはハンドバックを前に当てて、その部分だけ黒く変色しているであろう、グレーのスラックスの股の部分を隠した。
あたりの人はそれを聞いてちょっと動揺したようだったが、何分満員バスなので、自分のすぐ回りにいる人間しか観察できない。それも上半身だけ。だから、おしっこの主がわたしであることを、特定できた人はそんなにはいないはずだ。わたしはうつむいて、ハンドバックでスラックスの前を押さえ続けた。涙が出て、泣き声が出そうになったが、わたしは必死でそれをこらえた。
四十分ほどで、西国原の駅に着いた。たくさんの乗客がそこで降りた。わたしもそこで降りた。こんな格好だもの。降りざるをえない。ハンドバックで前は隠しているけれど、お尻がどうなっているのかは分からない。
バスのステップを降りて、片足が地面に着いたとき。
「あっ、おしっこ垂れたのはあの姉ちゃんだ。」
と言う声が後ろから聞こえた。予想はしていたけれど、わたしの中に感電したような衝撃が走った。わたしは、人ごみを掻き分けて走り出した。走りながら、涙が止まらなくなった。わたしは泣きながら、西国原駅のトイレに飛び込んだ。