全国中継

海野美里、二十七歳。毎年一月、京都市内で開催される、都道府県対抗女子駅伝に、選手として参加している。社会人選手の彼女は、普段神奈川県に住んでいるが、今回は「ふるさと選手」として、出身地の中国地方OO県から出場することになった。美里は、第六区、「国際会館前から北白川別当町まで」、四キロ余を受け持つ。マラソンの記録もさることながら、彼女は美人ランナーとして有名、ファンクラブがいくつも存在するという。
午後一時十五分。ウォーミングアップを済ませた選手たちが、中継点に戻ってくる。マラソンのスタート前や、駅伝でタスキを受け取る前など、緊張の余り尿意を催す選手が多い。その日、正午の気温は三度。時々小雪の舞う、京都独特の「底冷え」のする日であった。海野美里も、スタート前にもう一度用を足す必要性を感じていた。
「ちょっとやばいわ。出発までにもう一度トイレへ行かないと。どこかのお店でトイレを借りよう。」
彼女は歩道に沿ってまた少しジョッグをする。しかし、民家や店らしいものは見つからない。
「ええっ、ここ、『国際会館前』って、何もないところなの。どうして、こんな所に中継所があるのよ。どこか物陰でやっちゃえるかな。ああダメ、道路の脇はもう観客で一杯。」
「三十四番、OO県、準備してください。」
係員の声がかかる。
「えっ、先頭で来るの。チームの皆、頑張ってるのね・・・はい、今準備します。」
彼女はアップスーツの上下を脱ぎ、付き添いの女子高生選手に渡す。下はピンクのランニングシャツとパンツ、寒さで腕や足に鳥肌が立つ。
「先輩、頑張ってください。」
「ええ、頑張る。精一杯・・・でも、これ、何とかしなきゃ。おしっこ。マジでやばいわ。」
「三十四番、OO県、二十七番、XX県、ランナーが来ます。道路に出てください。」
「仕方がない。走るのは十三分よ。十三分。それくらい、我慢できるわ。しなきゃ。」
数台の白バイのヘッドライトの間に、ピンク色のシャツとパンツが見える。五区の高校生、張本エリカである。
「わぁ、やっぱり、先頭で来るんだ。それも、二十メートル後にしっかり次のランナーをくっつけて。嬉しいような、嬉しくないような。」
観衆の声援の中、美里はタスキを受け取り走り出す。すぐ後ろで、二位のチームがタスキを中継したらしく、また観衆の声援が高まるのが聞こえる。
「おっ、あれは海野美里だ。」
「あれ、海野選手よ。」
「頑張ってぇ〜。」
そんな沿道の声を聞きながら、美里は走る。
「後ろのランナーは、XX県、スピードのある坂本さん。追いつかれてラストスパートの勝負になると勝ち目はない。最初から差を詰めささないようにしないと。」
美里のすぐ前を走るテレビの中継車の上で、カメラとアナウンサー、解説者が、先頭の二人の選手の姿を追い続ける。
「速いペースで飛び出した海野選手ですが、二キロを過ぎてかなり苦しそうな表情ですね。さかんに下半身に手をやっています。」
「おそらく腹痛でも起こしたのでしょう。」
「もうダメ〜。走り出すと、その振動で、よけいにしたくなってきた。お腹が痛い〜。遅れてもいいから、どこかでしゃがんでしてしまおう。五秒だけ、少しだけでも出せば、楽になる。そのくらいの遅れなら取り戻せるわ。皆には悪いけど・・・」
「海野〜、後ろ来てるぞ。」
「ええっ、何これ、坂本さん、もうすぐ後ろにいるの?!」
「先頭を走る海野選手を、坂本選手がどんどん追い上げております。その差もう五メートルを切りました。海野選手、苦しそうです、それに対して、坂本選手の表情には余裕が伺えます。」
「海野選手、やはり、腹痛に見舞われているのでしょう。」
「おや、海野選手の下半身が少しおかしいようです。ピンク色のパンツの下の方が濡れてきています。これは、海野選手、小便、いや、失禁、いや、放尿・・・」
実況アナウンサーが、「生理現象」という言葉を思い浮かべるまでに、数秒の沈黙がある。
「せ、生理現象です。OO県の海野選手、生理現象を催しながらの力走ですです。」
尿の一部は太ももを伝わりソックスとランニングシューズを濡らし、一部はピンク色のランニングパンツの尻から、散水車のように滴り落ちる。その様子を、中継車のカメラが捉えている。全国の駅伝ファンの目が、美里の下半身を注視している。テレビ中継車の横を走る報道陣の乗った車両から、一斉にシャッターを切る音が響く。
「あっ、後ろにピタリと付いていた坂本選手が、何かを叫んで転倒、尻餅です。坂本選手、海野選手のおしっこ、小便、いや、せ、生理現象の飛沫を避けようとして、バ、バランスを崩した模様です。」
その時、集音マイクは坂本明美の声をはっきりと捉えていた。
「きゃっ、なにこれ。いやっ。汚い。」
「この間に、う、海野選手、さ、差を広げます。ピンツのパンクの海野美里、再び、ど、独走です。」
今大会きっての美人選手の放尿を眼の前で見ているアナウンサーは、すっかり動転して「ピンクのパンツ」を言い間違えている。あらゆる展開を予想し、万端の準備をした放送局であるが、この展開までは予想していなかったらしい。
ピンク色のパンツの下半分を濃い色に染めながら、転倒した二位に一挙に三十メートルの差をつけた美里は、水滴を点々とアスファルトの上に残しながら走る。彼女は、後半の一キロ半、先頭を守り切る。そして、転倒でリズムを崩した坂本明美に二秒差をつけて、タスキを七区のランナーに渡したのであった。
中継点で、差し出されたタオルを肩ではなく下半身に巻きつけた彼女は、報道陣のカメラに向かって叫んでいた。
「すみません。写真は撮らないで、写真はやめてください。」
美里の力走の甲斐あって、後続の七区、八区、九区のランナーもトップを譲らず、OO県は中国地方としては始めての全国優勝を遂げた。
二位となったXX県の監督の談話が新聞に載った。
「OO県には『汚い』勝ち方をされてしまいました。」
しかし、世論は、失禁してまで頑張った美里に好意的であった。
水滴を垂らしながら走る美里のカラー写真を第一面に載せたスポーツ新聞が、翌日、飛ぶように売れたのは、言うまでもない。
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二〇〇五年のロンドンマラソン、先頭を走る英国のポーラ・ラドクリフ選手は、突然しゃがみこんで、パンツの股の部分を横にずらして放尿。それがBBCにより全世界に中継された。その後ラドクリフ選手は、再び力走。二位にダントツで優勝を果たした。
