着陸やり直し

 

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 石川県にあるパーティション会社の営業課に勤める桐村公子は、一泊の福岡出張に出かけた。小柄、ポッチャリ型でいかにも愛嬌のある外見、実際快活でエネルギッシュな彼女は、取引先からも好かれている。

福岡での仕事は順調に進んだ。商談はまとまり、後は正式に契約書を取り交わすだけとなった。

二日目の午後三時、公子はフリーになった。少し早いが、取引先の男性社員の車で福岡空港に向かう。その男性社員は、公子を送って行く役目を仰せつかったことを、とても喜んでいるようだった。

空港に着く。男性社員はチェックインカウンターまで公子に同行してきてくれた。小松行きの飛行機は十七時二十五分発。まだゲートが開くまで、一時間以上ある。

「どうです、ビールでも。俺は車やけん飲めんけど。桐村さんはもう仕事終わったけん、良かとでしょう。」

男性社員が誘う。

仕事が無事終わったという解放感から、公子は勧められるがまま、空港のレストランで生ビールの中ジョッキを二杯も空けてしまった。しかし、元来酒に強い公子は、その程度では、全く酔った感じさえしない。

 午後五時、搭乗開始のアナウンス。公子は男性社員に礼を言って搭乗口に向かう。白いシャツ、グレーのパンツスーツに身を包み、ラップトップの入った黒いショルダーバッグを持ち・・・つまり、典型的な出張中のキャリアウーマンという格好で、公子は「エアバス三二〇」機に乗り込んだ。その日の小松便は満席、公子の席は三席並んだ中央であった。公子のよく発達した尻には、真ん中の座席が小さく感じられる。両側は男性。窓側は高級そうな背広を着た中年の紳士。通路側は少しケビン・コスナー似の中年の外人である。

 

 飛行機が動き出す。公子は、出発前に飲んだビールが膀胱に溜まっていくのを感じた。調子に乗って飲みすぎたことを、彼女は少し後悔する。飛行機が飛び立ち、水平飛行に移り「座席ベルト着用」のサインが消えると同時に、公子は通路側の外人に「すみません」と言い、通路に出、トイレに飛び込んだ。トイレに座り下着を下ろした途端、ほぼ無色透明の液体が勢いよく流れ出し、グレーの便器に穴に吸い込まれていく。

 用を足してホッとして座席に戻る公子。しかし、席に就いて十分ほどすると、また尿意が始まった。

「どうして、今日に限ってこんなにトイレが近いのよ。しかも、席が通路側じゃないなんて。」

公子は心の中で文句を言う。

「早めにもう一度トイレに行っておこう。」

再び席を立とうとし、隣の外人男性にまた「すみません」と言いかけた瞬間、飛行機がガクンと揺れた。同時に、「リン」という微かな音と共に、ベルト着用のサインが点灯する。

「皆様、当機は今気流の悪い所を飛行中です。どなた様も席にお戻りになり、座席ベルトをしっかりとお締めください。」

また同時にそんなアナウンスが入った。

 公子の尿意はだんだんと逼迫してきた。彼女は「ベルト着用」のサインが消えるのを今か今かと待つ。

「何時まで待たせるのよ。いいかげんにしてよ。」

ベルト着用の合図があってから約十分後、また放送が入った。

「皆様、当機は小松空港へ向かって最終アプローチを開始いたしました。どなた様も、お席に就いたままでお待ちください。なお、座席の背もたれ、お使いになったテーブルは元の位置にお戻しください。」

「何なのよ、これ、人の気も知らないで。」

飛行機が高度を下げるにつれ、公子の腹の圧迫感も増してくる。

「あと十分。あと五分。」

やきもきしながら公子は堪える。足は、知らず知らずのうちにステップを踏んでいる。

 飛行機は高度を下げ、海上から陸地に入った。窓の下には家や車がはっきりと見える。

「もうすぐよ、我慢よ。」

 

着陸直前、それまで静かだった飛行機のエンジン音が、再び轟音に変わる。それとともに飛行機は急上昇を始めた。

「機長よりお客様にご案内いたします。小松空港では航空自衛隊と滑走路を共用しておりますが、自衛隊機の緊急発進のため、当機は着陸を回避いたしました。一度上空を旋廻いたしました後、約十五分後に着陸いたします。お急ぎのところ、お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解をお願いいたします。」

絶望感が公子を包む。

「クソ、自衛隊、殺す。」

そう心の中で呟いた途端、尿が少し漏れたのが分かった。

「ああっ。やっちゃった。」

思わず声が出る。公子が辛そうな様子を見て、横の外人男性が、

「ダイジョウブデスカ。」

と尋ねてくる。笑って誤魔化そうとするが、公子の顔は引きつっている。

 公子の失禁の第一波は二十秒ほど続いた。小便はスラックスのお尻と下着、その下のシートをかなり濡らしたようである。公子はスーツのジャケットを脱いで、膝に掛ける。しかし、膝の間から立ち上る小便の匂いはどうしようもなかった。

 

 飛行機は小松空港のターミナルビルに到着。客が前の方から順に降り始めた。公子はジャケットを腰に巻きつけた。グレーのスラックスの尻には、おそらく円形の染みが出来ているはずである。降りる際、公子はシートが濡れていることを乗務員に言おうかどうか迷った。しかし、結局何も言わないで外に出た。

 ターミナルビルで見つけた最初のトイレに、公子は駆け込んだ。幸い、鞄の中には、今朝着替えた後のショーツとパンストが入っていた。多少汚れてはいるが、とにかく乾いている。公子はまずスラックスを脱いで扉のフックに掛け、次に濡れたショーツとパンストを脱いで、透明のビニール製の洗面用具入れに押し込んだ。便器に腰掛け、膀胱に残っていた元ビールを十分に出し切った後、乾いた下着を身に着ける。

 降りた乗客は皆出口に向かったのか、トイレには誰も入って来ない。人がいないことを確かめて、公子はパンスト姿で個室を出た。そして、熱い空気の出るハンドドライヤーで、濡れたスラックスの尻を乾しはじめる。五分ほどその作業を続けると、スラックスの染みがかなり薄くなった。

 突然ドアが開いて、航空会社の制服を着た、地上職員と思われる女性が入って来た。公子は慌てて個室に飛び込み、スラックスを履く。

 お尻の染みが目立たないのを確認してからトイレを出た公子。トイレの前には、先ほどトイレに入ってきた女性職員が立っていた。

「桐村公子様でしょうか。」

ギクッとして立ち竦む公子。

「少しお聞きしたいことがございますので、恐れ入りますが、事務所までご足労願えませんでしょうか。」

「ああ、神様、わたしにこれ以上の苦難を与えないで。」

踏絵に向かう隠れ切支丹のような気持ちで、公子は職員の後に付いて行く。

 

 女性職員は公子を航空会社の事務室まで連れて行き、彼女を応接室に案内した。そこには女性が一人、男性が三人立っていた。女性のひとりは福岡からの飛行機のスチュワーデス、男性のひとりはパーサー。先ほどまで機内で一緒にいたので、顔に見覚えがある。制服を着ている一番年配の男性は、おそらく機長であろう。

「お座りください。」

と言われ、公子はソファに浅く腰を掛けた。女性職員も向かい側に腰を下ろし、話を切り出す。他の人々は立ったままである。

「お客様のお座りになった、『十六B』の席が汚れていたのですが。何かご存知ありませんか。」

女性職員が尋ねる。

「知りません。」

公子は答える。声がかすれているのが自分でも分かる。

「お隣のお客様がお気づきになり、乗務員にお知らせいただいたのですが。」

「クソ、あのヒヒオヤジ、あるいは、あのダラ外人、チクりやがったんだ。」

(註:「ダラ」は石川県の方言で、「馬鹿」のことである。)

公子は心の中で呪った。

「先ほど、お手洗いで、おズボンを脱いでおられましたが、どうかなさったのでしょうか。」

「い、いえ、破れているような気がしたんで、た、確かめていただけです。」

公子の声が震えている。女性職員は話題を変えてきた。

「恐れ入りますが、お荷物の中を拝見できますでしょうか。」

「ど、どうしてそんな、あ、あなた方に、そんな権利があるんです。」

公子の動揺が激しくなる。

「航空法七十三条によりますと、航空会社は器物破損などの疑いのある乗客を拘束し、その方の荷物を調べることができるんですよ。」

「『器物破損』ですって。わたしが何をしたって言うんですか。」

「もし、お客様が故意にシートを汚された場合は、器物破損ということにもなりますので。よろしいでしょうか、開けさせていただいて。」

「あの、それは・・・」

 

 女性職員は、机の上にある、公子の黒いショルダーバッグのジッパーを開けた。一番上に透明の洗面用具入れがあり、そこに濡れたショーツとパンストが見える。女性職員は、その洗面用具入れを取り出し、そのホックを開け、濡れたショーツを航空会社のロゴの入った青いボールペンでテーブルの上に引き出した。

 水色と白の細い縞模様、上部には白いリボンが、下部には白いフリルが付いた浅めのショーツ。それは先ほど公子が脱いだまま、つまり裏返しに入っていた。女性職員が、その股の部分にボールペンを引っかけて引き出したものでだから、公子の恥ずかしい箇所に直接当たっていた布が、応接室の明るい蛍光灯に照らしだされた。

 下着は全体的に小便にまみれていたが、その薄いクリーム色の染みの他に、少し色の濃い、別の染みも付いているのが明らかに分かる。昨夜、夕食に辛いタイ料理を食べ、午前中少々下痢気味だった公子は、顧客との会議中、トイレに入った。その際、慌てていた公子は、用を足した後、十分に拭かないまま下着を引き上げたのであった。それらが、三人の男性の前に晒し出される。

「ずいぶん汚れているようですが、どうされ・・・」

職員の声は、公子の金属音のような悲鳴に遮られる。

「もうやめてください。わたし、漏らしたんです。おしっこ。どうしても我慢できなくて。着陸のやり直しのときに。自衛隊のせいなんです。でも、これ、事故、そう、事故なんです。わざとじゃありません。女のわたしが、わざとこんな恥ずかしいこと、するわけないじゃないですか・・・」

公子は泣き崩れた。公子は、降りるときに乗務員に正直に言わなかったことを、今更ながら後悔していた。

 

 何枚かの書類にサインをさせられた公子は、三十分後に部屋を出ることを許された。その日は、彼女にとって人生で最大の恥辱の日。

「自衛隊、ブチ殺す。」

彼女は何度もそう言いながらターミナルを出てバス乗り場に向った。

 

                             ***

 

航空法七十三条の三

 

機長は、航空機内にある者が、離陸のため当該航空機のすべての乗降口が閉ざされた時から着陸の後降機のためこれらの乗降口のうちいずれかが開かれる時までに、当該航空機の安全を害し、当該航空機内にあるその者以外の者若しくは財産に危害を及ぼし、当該航空機内の秩序をみだし、若しくは当該航空機内の規律に違反する行為をし、又はこれらの行為をしようとしていると信ずるに足りる相当な理由があるときは、当該航空機の安全の保持、当該航空機内にあるその者以外の者若しくは財産の保護又は当該航空機内の秩序若しくは規律の維持のために必要な限度で、その者に対し拘束その他これらの行為を抑止するための措置をとり、又はその者を降機させることができる。

 

 

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