レディーズ・マラソン

僕の住む城北市と隣町との境に速水川が流れている。十月のある日曜日、その速水川河川敷の自転車道で、ある化粧品会社主催の女性ばかりの十キロレース、「レディーズ・マラソン」が開かれることになった。「お肌から健康が滴る」という、テレビCMをやっているあの会社だ。県立城北高校の「JRC」(ジュニア・レッド・クロス、少年赤十字)の一員として、僕と「JRC」の仲間が、ボランティアとしてそのイベントを手伝うことになった。
この僕が「少年赤十字」のメンバーだなんて、信じられないことだが、これは事実だ。実は本当の「JRC」なる部活が、数年前まで、僕の高校に存在していたのだ。大方、老人ホームの慰問とか、腹を空かせたアフリカのガキへの募金とか、そんな爺むさいことをやっていたのだろう。当然のことながら、そのうち誰も部員がいなくなり、部室は空家になった。その空いた部室を使うために、僕ら「悪乗りグループ」が勝手に「JRC」を「再結成」しただけなのだ。
「赤十字」として活動らしい活動は何ひとつやってない。部室は僕らの娯楽室。高校の女子便所全て内側から鍵をかけ、「使用禁止」の張り紙をし、右往左往する女子生徒を見て楽しむ、などと言う、馬鹿な企画の作戦会議の場所になっていた。堀、西田、宮入、河原、源田、それに僕の六人が「悪乗りグループ」のコアメンバーだ。
言っておくが、「悪乗りグループ」は、「不良グループ」ではない。「馬鹿なことを真面目やる」ことを目的に自発的に集まったグループだ。うちの高校は、県内でも指折りの進学校だが、僕も含めメンバーは、自分で言うのもなんだが、頭脳明晰な連中ばかりだ。ただ、ちょっと人生に退屈して、面白いことを追い求めているだけなのだ。
「レディーズ・マラソン」のボランティアへの応募を思いついたのは、「部長」の堀である。「JRC」を名乗っている以上、部室にたむろするだけではなく、一年に一度くらいは「活動」しておいて方がいいというのが彼の意見。「実績」を作り、学校側が僕達を部室から追い出す口実を、前もって潰しておこうと言うわけだ。どうせ参加するなら、若い女性の集まる催しが良いと言うことで、「レディーズ・マラソン」が選ばれたわけだ。カメラ好きの僕は、若い綺麗な女性ランナーの写真でも撮れればと思い、他のメンバーもそれぞれの思惑を持ち、ボランティア活動参加に同意した。
イベントの一週間前に、主催者側から堀に電話があった。僕等は地元の女子校、城北学院高校の書道部の女の子達と一緒に、折り返し地点の「ドリンク・ステーション」つまり給水所を担当することになったとのことだった。
「ドリンク・ステーション」、その言葉を聞いて、僕の頭の中のコンピューターがカタカタと動いた。
「悪乗りグループ」には、六人のコアメンバーの他に、数人の「賛助会員」がいた。何か面白いことがあれば、参加してもいいという、ちょっと消極的なメンバーだ。その中の一人、稲村の家が薬局であることを僕は思い出した。
「おまえんち、薬局だから、当然、お前も薬には強いよな。」
僕はイベントの三日前、放課後に稲村を捉まえて尋ねた。
「薬の名前くらいは知っている。時々店番をするから。俺は薬を売っちゃいけないけど、うちは、紙おむつやシャンプーや蚊取り線香なんかも置いてるから。」
と彼は答えた。
「おまえんち、当然、便秘薬も売ってるよな。」
「ああ、売ってる。便秘で悩んでる女性って現代社会に多いから。」
女性が便秘に悩むのは、ずっと昔からのような気もするのだが。
「短時間によく効く下剤ってあるか。」
彼は不思議そうな顔をして僕を見た。しかし、さすがに薬屋の息子、なかなか詳しい知識を持っていた。
「下剤には、『緩下剤』ってのと『峻下剤』ってのがあって、『緩下剤』」は徐々に穏やかあに効いて、『峻下剤』ってのは飲んだ途端にピーピーになる。」
なるほど、一概に下剤と言っても色々あるんだ。
「ところで、その『峻下剤』って粉末かい。それとも錠剤。」
更に僕が聞く。
「確か、両方あったような気がするなあ。」
と稲村。
「ねえ、その粉末の『峻下剤』を一箱か二箱分けてくれないかなあ。」
と僕は彼に尋ねた。
「淡木、お前、またつまらんことを考えてるな。『緩下剤』はともかく、『峻下剤』は医者の処方箋がないと売っちゃいけないんだぜ。」
「お前と俺の中じゃん。そこを何とか。それに、なかなか楽しい光景が見られるかも知れないんだぜ。お前から買ったなんて、口が裂けても言わないから。俺の口の固いの、知ってるだろ。」
「でも、犯罪だけには使うなよ。」
翌朝、登校してきた稲村が僕に寄ってきた。彼は黙って薬を二箱、僕の学生服のポケットに入れた。
その日の放課後、僕は「悪乗りグループ」のメンバーを部室に招集した。そして、「計画」について説明した。
「いいんじゃない。面白そうじゃん。」
と西田が、いつもの気のない調子で言い、皆が僕の「計画」に賛同した。その「合意」を基に、僕達は細かい実行計画を作成した。
僕は、レースの朝、その粉末の下剤を、携帯用の魔法瓶に入れた。そこに水を注ぎ、バーテンダーがカクテルを作る要領でよく混ぜた。キャップを開いて覗いてみると、薬は完全に水に溶けていた。そして、カメラと一緒にその魔法瓶をリュックサックに入れ、マウンテンバイクで家を出た。
レースのスタートは十一時だ。ボランティアは十時にスタート地点に集合することになっていた。僕たちは他のボランティアと一緒に一箇所に集められ、主催者から、レースについて概要説明を受けた。
「・・・給水所は折り返し地点にあります。仮設トイレはスタート地点に十台。折り返し地点とその中間にそれぞれ二台です。ランナーに尋ねられたら、そう答えて下さい。気分の悪くなった人を見つけたら、携帯からこの番号に電話してください。救護所につながり、必要によっては救急車が駆けつけますから・・・」
市の陸上競技連盟の帽子を被った中年の男がそんな説明をした。
それからボランティアたちは、車に分乗して、それぞれの持ち場に向かった。僕はその車には乗らず、自転車で五キロ離れた折り返し地点に向かった。
折り返し地点の少し手前には、既に机が並べられており、その横のパレットの上に、上から透明のフィルムでグルグル巻きにされた、スポーツドリンクとミネラルウオーターが置かれていた。僕ら男連中が、ペットボトルをパレットから降ろす。女子高生達はスポーツドリンクや水をペットボトルからプラスチックのコップに注ぎ、机の上に並べ始めた。
「渡すときにこぼれるから、余り口まで入れちゃいかん。」
と、折り返し点担当の、陸上競技連盟の人間が言った。その男が持ち場に帰るために、給水所を離れたとき、
「堀、ちょっと、女の子達の目を反らせろ。」
と僕が言う。
「城北学院の綺麗どころの皆さん。ちょっと注目、注目。お退屈しのぎに。」
お調子者の堀が、トランプで手品を始めた。彼の役割は、同じ場所で働く人間の目を、一分間逸らせること。それにしても、トランプをポケットに入れてきてなんて、相変わらず準備の良い奴だ。
僕は、女子高生達が、堀の手品に笑い転げている間に、魔法瓶の中身を百個のスポーツドリンクの入ったコップに注いだ。もともとコップには半分くらいしかドリンクが入っていないので、多少量が増えても誰も分からない。これで、文字通り「スペシャルドリンク」の出来上がり。事前の打合せで、スペシャルドリンクの位置は決めてあった。そして、それは、「特に可愛い、美人の」ランナーにのみ手渡すことになっていた。
午前十一時、スタートが切られた頃だ。雨の降る気配はないが、曇り空で肌寒い天気。僕たちは、女子高生達と、取りとめのない会話をしながら過ごした。しかし、書道部って、どうしてこんなにブスばっかりが集まっているんだろう。
十一時二十分、先頭のランナーが見え、あっという間に折り返し地点を回り、去っていった。スポンサーの化粧品会社に属する、結構有名な美人ランナーだ。世界選手権の代表にもなった選手。いくら美人でも、さすがに彼女には「下剤入り」を渡すつもりはなかった。彼女が苦しむ様子を見たい気もするが、余りにも反響が大きすぎ、疑われる可能性が大きいからだった。そもそも、本当に速いランナーは十キロ走るくらいで、途中給水しないのだが。
しばらくして、「大群」がやってきた。何百人という女性ランナーが色とりどりのウェアで目の前を通り過ぎる。ランニングパンツ、レギンス、スパッツの女性たちの群れが。三人のうち二人は「ドリンク・ステーション」を利用していく。僕達は給水所の机の前に立ち、中身を零さないように注意しながら、飲み物の入ったプラスチックのコップをランナーに手渡して行くのに忙しい。
おばさんランナーや、ブス、中学生には普通のドリンクを。高校生以上で、美人と目をつけたランナーに「スペシャルドリンク」を手渡していく。
城北高校、生徒会長の星野千晶が現れた。僕はうちの高校からも何人かがレースに参加しているのを知っていた。県内の模擬テストでは常にベストテンに入り、美人で有名だが、普段はちょっとお高く留まっている星野千晶が、汗を顔と白いTシャツの胸に滲ませながら、息を切らせている姿も、結構色っぽい。いやエロっぽいと言ってもいいか。
「星野さん、頑張って。」
「行けえ、城北生徒会長。」
「ゴーゴー、チアキ。」
僕達は叫ぶ。星野千晶は僕達に向かって手を振った。
星野千晶がドリンク・ステーションの前に来たとき、
「これ飲んで頑張ってね。」
などと言いながら、堀がドリンクを渡している。立ち止まった星野千晶は、
「有難う。ご苦労様ね。」
と言いながらそれを飲み干した。
それを見て、僕は行動を開始した。
「ごめん、悪いけどちょっと持ち場を離れる。」
僕はそう仲間に言うと、傍に寝かしておいた自転車に乗り、三十メートルくらいの距離を保ちながら、星野千晶の後を追った。
折り返し点を過ぎてからも、彼女はそのまま結構速いペースで走っている。硬式テニス部のキャプテンでもある彼女は、結構スタミナがあるのだ。ポニーテールと、白いTシャツ、水色のランニングパンツ、薄い水色のソックスに白いジョギングシューズが快調に僕の前で歩を刻んでいる。
「稲村の薬、本当に効くのかな。」
そんな疑問が一瞬頭を横切る。
しかし、十分もしない間に、彼女のペースはガクリと落ちた。急に内股になり、時々腹を押さえている。後ろからなので、表情は見えないが、苦悶の表情を浮かべていることは、容易に察しがつく。ゴールと折り返しのちょうど真ん中、七キロ半の地点に、仮設トイレがある。星野千晶もそのことを知っていて、何とかそこまで頑張り通すつもりなのだろうか。走っているのが辛そうだ。走れば振動が腹に応える、しかし、走らなければ、なかなかトイレまで辿り着けない。彼女は今、ジレンマに陥っていた。もちろん、その場で出してしまうことももう一つの選択なのであるが。
星野千晶は歩くようなスピードになり、沢山のランナーに追い抜かれながらも、一キロ以上頑張り通し、七キロ半地点、つまり仮設トイレまで辿り着いた。その頑張りと根性には、正直脱帽するしかない。さすが、生徒会長だ。
しかし、ふたつの仮設トイレの前には、既に数人の女性ランナーが腹を押さえながら、待っていた。それを見た星野千晶は、土手を登り始めた。土手には高さ三十センチくらいの草が生えているだけ、とても彼女が身を隠すような場所はない。土手の向こう側の民家で、トイレを借りるつもりなのだろうか。
僕は、自転車を置いて彼女を追った。土手を登っていた彼女が、突然立ち止まる。彼女はしゃがみ込み、片手で腹を押さえ、もうひとつの手を地面について上半身を支えた。僕はそこで初めて彼女に声をかけた。
「星野さん。どうしたん。」
星野千晶は、こちらを見た。汗なのか、涙なのか、彼女の顔はグチャグチャに濡れている。彼女は呻くように叫んだ。
「何でもない。行って。」
僕は近づいていく。
「顔色が悪いよ。救護テントまで送ろうか。」
「いいから。お願い。行って。」
哀願するように言う。Tシャツは、ずぶ濡れで背中に張り付き、ブラジャーがくっきりと透けて見えている。
「淡木くん。早く、あっち行ってって、言っているでしょ・・・ううっ」
彼女の上半身がブルッと震えた。最初の大便が下着の中に出たらしい。まだ固形らしく、外からは見えない。ただ臭いだけがした。
「嫌っ、恥ずかしい。」
第一波は何とか下着が食い止めたが、第二波からは次第に水分が増えるはず。星野千晶は片手を腹ではなく、尻に当てて土手の上に向かって数歩進んだ。
「お、お願い、見ないで。」
中腰の姿勢で彼女は叫んだ。「ブッ」という音がして、水色のランニングパンツの裾から黄色い液体が滴った。
「お願いだから、離れてて。後ろ向いてて。」
僕は反対側の、川の方を向いた。
「ブルブルブル」
トランペットのトレモロのような音が背後で聴こえた。僕は背中のリュックを下ろし、中からスポーツタオルを取り出した。そして、後ろを向いたまま、それを星野千晶に渡した。
「ありがとう。」
の声に振り返ると、腰にタオルを巻いた彼女がいた。彼女はそのタオルを巻いた姿で、土手の上をゴールの方角へ向かって歩いて行った。
僕が仮設トイレの方へ降りて行った。そこでは凄まじい光景が繰り広げられていた。苦しむ女性とそれを介抱する女性。
二十人近い、若い美形の女性ばかりが苦しんでいた。そのうち、トイレで用を済ませることができたのは幸運な人たちなのだろう。何人かは恥も外聞もなく、ランニングパンツやスパッツを下げて土手の草の上に脱糞していた。ランニングパンツやスパッツを下げることを躊躇った、あるいは間に合わなかった女性は、その中に脱糞し、お尻を黄色く染めていた。これが一番えげつなかった。辺りにはものすごい匂いが立ち込めている。僕は、少し離れたら場所から、密かに望遠ズームの付いた「ニコンD八十」で、その光景を撮影した。今回の僕の役割は「記録係」なのだ。
その後、僕は携帯から救護所に連絡をした。そして自転車に飛び乗り、全速力でスタート地点に戻り、救護所にあるだけのタオルを借りた。そして、仮設トイレの前に戻り、パンツの中に脱糞している女性達に、そのタオルを配って回った。この辺り、僕がいかに「偽善者」であるかは、自分でも分かっている。
そのうち、土手の上に救急車が到着、そこからタオルや毛布が下ろされた。脱糞した女性達は、それに包まれて、救護所に運ばれて行った。
後で聞いた話だが、便意を催したランナー証言で、給水所のドリンクに対し疑いの目が向けられたらしい。それは当然だ。しかし、ドリンクを用意したのは、城北学院の書道部の女子生徒ということになっている。彼女たちは主催者側に呼ばれ、色々聞かれたようだ。しかし、もちろん、彼女達は何も知らない。一緒にいた陸上競技連盟の人間も、何も怪しい、変わったことはなかったと証言したらしい。基本的に「ドリンクを渡す」だけの立場だった僕達男子生徒は、呼ばれもしなかった。
残ったドリンクは全て川に流した。僕の魔法瓶も、きれいに洗ってある。給水所の五十メートルほど先でランナーから回収したプラスチックのコップも、西田と稲村が全てきれい中身を草むらに捨ててから、大きなゴミ袋に入れていた。おまけに「スペシャルドリンク」は全体の十パーセントにも満たないのだ。仮に、調べられても、これでは分かるはずがない。
「多分、ドリンクの中に、製造過程で混入した異物が入っていたのだろう。」
そんな結論で、この事件は片付けらのだと思う。
その日の午後、僕達は堀の家に集まり、僕が撮った写真の鑑賞会を行った。しかし、それらは男子高校生の「女性への憧憬」を覆すような、かなり凄まじいものばかりだった。
「きれいな姉ちゃんも、結局は糞の製造機なんだ。」
源田がポツンと言った。
翌日、学校の廊下で星野千晶に出会った。彼女は洗濯して畳んだ僕のスポーツタオルを返してくれた。彼女は僕の耳元で言った。
「昨日は有難う。タオルを巻いてゴールしたのは、生理が突然始まったことになっているの。一生のお願い、昨日のことは誰にも言わないでね。」
「ふうん、彼女にとっては『大便』より『生理』の方が恥ずかしくないんだ。」
僕は、女性の心理の一面を知ったような気がした。
