院長夫人の醜態
「この方、川にはまって、お洋服を濡らされたんです。」
僕はタクシーの運転手に言い訳をした。そうでも言わないと、葉子の異様な恰好に対して説明がつかなかった。上半身は男物のカーキ色のブルゾン、下半身は男物のグレーのブリーフだけ。その下は生足に裸足。ブリーフは、下におむつをしているように膨らんでいる。彼女は無言でタクシーの後部座席に乗り込み、車は発車した。葉子は下を向いたままだった。

一昨日の金曜日の夕方、僕は故郷の町の商店街にいた。商店街はアーケードに覆われており、仕事帰りの買い物客で人通りが多かった。雑踏の嫌いな僕は、うつむき加減で、茶色とグレーの人造石でできた、モザイク状の床を眺めながら歩いていた。
「淡木くん!」
女性の声が僕を呼び止めた。顔を上げると城北高校で同級生だった葉子だった。卒業して数年後に行われた同窓会で、一度彼女に会ったことがある。それ以来。多分、葉子に会うのは十年以上ぶりだろう。彼女は白いスーツを着ていた。襟と、ふんわりと広がった膝下までのスカートの裾に紺色の縁取りがある、いかにも金持ち、有閑のマダム風のファッション。しかし、高校時代も長髪ではなった髪はさらに短くなり、細くしまった顔と相まって、ボーイッシュな印象も与えていた。彼女のチャームポイントの少し吊り上がった目も変わっていない。
「葉子さん、帰ってきてたん?」
「うん、母の様子を見に。淡木くんこそ、何時から戻ってるの?」
僕は大学に入学すると同時に故郷の町を離れ、かれこれ二十年近く、この町には住んでいなかった。
「明日、亡くなった親父の三回忌なんよ。で、今日の昼過ぎに戻ってきたん。月曜日の振替休日まではここにいるつもり。」
「そうだったねえ。お父様、亡くなられたんだよね。残念だわ。ところで、今日はこれから母の家に戻らなければならないだけど、日曜日、会わない?」
葉子は実に単刀直入に切り出した。意外な展開に僕の胸は高鳴った。高校時代、葉子は僕の憧れの女性だった。一度デートに誘ったが、見事に振られた。それから二十年近く経った今、今回は彼女の方から誘ってきた。
「いいよ、昼飯でも一緒に食べようや。」
僕は喜びを隠して、できるだけ素っ気なく言った。
「うん、いいわよ。淡木くんの家、昔と同じ所?」
「そう、母がまだ一心寺の近くに住んでるし、そこにいる。」
「じゃあ、一心寺前のバス停に午後一時に集合!楽しみにしてる。」
葉子はそう言って商店街の人混みの中を去って行った。彼女は二度振り返って手を振った。僕は葉子に対する二十年前の情熱と欲望が戻ってくるのを感じた。
「『院長夫人』」の葉子が、彼女の方から積極的に誘ってきた。」
もう僕には妻も子供もいるのに。
日曜日の午後一時。僕は一心寺前のバス停で葉子と会った。バス停には僕が先に着いた。時計を見ながら女性を待つウキウキした気分は、実に久しぶりで良いものだ。妻と待ち合わせをしていても、こんな気分にはならない。一時三分過ぎ、手を振りながら葉子が現れた。彼女のいでたちを見て、僕は驚いた。葉子はダークグリーンのベルベット地のワンピースを着ていた。襟と袖口が白いレース、腰の辺りは少し余裕があるが、裾が太ももでベルト状にキュッと閉まっていて、ちょっと提灯のような形。ワンピースの下には、看護師がはいているような白いタイツ。黒エナメルの靴と、同じく黒のエナメルのハンドバッグが、ピカピカと光っている。まるで女子高生のようなファッション。しかし、それが三十代も後半に入った葉子に、少しも嫌味な印象を与えず、若々しい魅力的を発散させていた。
葉子は東京の大学を出た後、大学で知り合った医学部生で、四国出身の男と結婚していた。友人の情報によると、数年後、彼女の夫は、引退した親の後を継ぎ、四国のある町で、大きな脳神経外科の病院の院長になったとのことだ。したがって彼女は今「院長夫人」なのである。息子がひとりいるとも聞いていた。
「『鳳凰』を予約しておいたから、そこでお昼ご飯にしよう。それでよかった?」
と彼女は言った。「鳳凰」というのは、川に面した、町で一番高級な中華料理店である。さすが院長夫人、ポッシュな場所をお好みである。
歩いて十分ほどのレストランに着く。
「今住んでいる町では、何をしていても院長夫人として注目されるの。この町に帰ってくるとホッとするわ。」
彼女は席に着きながらそう言った。昼食を食べながら、高校時代の思い出や、今日まであったことを報告し合った。一見派手な開業医の生活だが、病院の経営は大変なようだった。設備投資にまつわる莫大なローンを抱えての綱渡りのような経営は、気苦労が多いとのことだった。それに、彼女の夫、つまり院長がどこかに別の女を作っているとも彼女は言った。しかし、それを淡々と語る彼女は、苦労の跡などおくびにも見せず、チャーミングで、昔と同じように素晴らしかった。
食事が終わって、目の玉が飛び出るような金額を、
「わたしが誘ったんだから。」
という理由で、彼女が一人で払った後、僕たちは川沿いを散歩することにした。ふたりはレストランのあった桜橋で土手を降りて、速水川の河川敷を白菊橋の方向へ歩き出した。この河川敷は、僕らの通っていた城北高校各運動部のランニングコースでもあった。春は桜の名所。川の上にはカモメが舞っている。僕たちは、会話を続けた。しばらくして、彼女の口数が少なくなってきていることを、彼女の関心が他に移っていることを、僕は感じ始めた。ちょうど二つの橋の中間まで来たとき、それまで輝いていた葉子の顔に、少し翳りが走った。彼女は右手を腹に当てた。
「どうしたん?お腹でも痛いのん?」
「うん、少し。」
数歩行った後、彼女は右手を腹に当てたまま、前かがみになって、左手を尻に当てた。同時に、
「痛てて。」
という言葉が葉子の口から洩れた。
「淡木くん、この近くにトイレあったっけ?」
と彼女は、顔をしかめて言った。
「うん、確か、次の白菊橋のたもとに公衆便所があったけど。」
僕は前方を指さした。遠方の橋の上に、車やバスが通っているのが見えた。僕たちは、桜橋と白菊橋のちょうど中間辺りにいて、白菊橋までの距離は五百メートルほどに思われた。葉子はそのままの姿勢で、足を速めようとした。
「痛っ。」
彼女は立ち止った。
「あの、葉子さん、・・・したいの?」
彼女は、眉間に皺を寄せ、首を縦に振った。短い前髪が、汗で額に張り付いている。
「あの、どうしても我慢できんのやったら、あの土手の桜の木の後ろでしたらどう。僕、見張ってるし、あそこなら下に草も茂ってるし。」
一瞬の躊躇の後、彼女は土手に向かって歩き出し、中腹の三本の桜の木の間で中腰になり、何やら作業を始めた。間違いなく、ワンピースをまくり上げ、タイツと下着を下ろそうとしているのだ。草に隠れてはっきりと見えないが、裾が細く詰まっているワンピースお尻まで上げるのが難しそう。彼女がお尻を出すには、背中のファスナーを下ろして、ワンピースそのものを脱いでしまう必要があるようだった。
「ここじゃダメ、やっぱりトイレへ行く。」
半分泣きそうになった葉子が、尻を押さえながら、前かがみで土手を降りてきた。それから彼女は内股で三十メートルほど歩いた。彼女の苦しそうな横顔を見ながら僕は同じペースでゆっくりと歩く。しかし、彼女の努力にも限界がやってきた。彼女は立ち止った。彼女は一瞬身震いをした。押さえている手の下で、何か音がした。
「どうしよう。」
彼女が呟く。僕が傍に寄ろうとすると、彼女は決然とした表情でこっちを見て叫んだ。
「来ないで!臭うから。」
一分ほど立ち止った後、彼女は歩き出した。最初はこれまで通り内股で。しかし、次第にがに股になり、最後はワンピースの狭い裾の中で広げられる限り足を広げて彼女は歩いた。それは、花道を引き上げる力士のような歩き方だった。彼女のワンピースの中の、タイツと下着の中が、これ以上ない不快な状態になっていることは容易に想像できた。彼女が最も清潔に保ちたい部分が、汚物まみれになっているのだ。黄色い筋が、白いタイツの内側に流れ始めた。三メートル後ろを歩いている僕の周囲にも、強烈な臭いがただよってきた。間もなく白菊橋の下までたどり着いた。橋の向こう側に、灰色の小さなくもりガラスの窓のある建物があった。
「あそこがトイレ。」
僕が指を指す。葉子はがに股のまま、そちらへ走って行った。
外から見る限り、女子トイレは個室が二つあるようだった。五分後、僕は好奇心に負けて、女子トイレの入り口に近づき、横目で中を見た。上半身は肌色の長袖のTシャツ、下半身をむき出しにした「院長夫人」が、洗面所の前に立って、ハンカチを洗い、絞っては下半身をぬぐっているのが見えた。
「彼女のシャツはユニクロのヒートテックだ。」
そんなことを考えながら、僕はトイレを離れ川のそばに戻った。
葉子が最終的に戻ってくるまでに二十分以上かかった。彼女は生足だった。もちろん、下着をつけている可能性はゼロだった。
「ごめんなさい。」
と葉子は一言だけ言った。とにかくこの忌まわしい場と、目撃者の僕から逃れて、家に帰りたいという気持ちが伝わってきた。
「災難やったね。中華料理屋のせいや。気にせんでいい。」
僕は、彼女の肩に手を掛けた。もう何の臭いもしなかった。
「そんなに親切にしないで!かえって惨めになる。このうんこ垂れの豚女、臭いから傍に寄るなって言って。」
そう言って彼女は僕の腕の中で泣き崩れた。
「橋の上でタクシーを拾おう。」
僕はそういって彼女の肩を抱いて土手の階段を上がった。葉子は声を出して泣き続けていた。

橋の上でタクシーを待った。そのとき、葉子が、
「いやっ、また。」
と叫んだ。同時に、彼女のワンピースの下から、黄色いほぼ液体と言ってよい便が勢いよく滴り落ちた。その黄色い下痢は、葉子の黒いエナメルの靴の表面を黄色く覆った。犬を連れた老女と、自転車に乗った若者が通りかかった。彼らは足と自転車を止め、驚いた目で葉子の脱糞を見つめていた。
僕たちはまた公衆便所に戻った。彼女のワンピースと靴はもう臭くて身に着けることはできないように思えた。
「ちょっと待って。」
僕は男子トイレに入り、ズボンを脱ぎ、その下のブリーフを脱ぎ、またズボンをはいた。僕のブルゾンとブリーフを、僕は外で呆然と佇む葉子に渡した。数分後、葉子は「女性ホームレス」という身なりで出てきた。化粧は汗と涙で流れ落ち、髪もグチャグチャ。彼女が靴とドレスをどう始末したか知らない。彼女は僕のブルゾンとブリーフを身に着け、ユニクロ・ヒートテックのシャツを畳んで、おむつ代わりにブリーフの中に押し込んでいた。そして裸足であった。僕は崩れ落ちそうな葉子を支え、再び土手の階段を上がった。